考える自由『あたまの鍵』

ニュースでも仕事でも見聞き体験から何かを思うことがある。調べようが調べまいが思ったんだからしょうがないじゃん!パソコンとかメカいじりとか・・・

不自由な状態は工夫を生み出すのではないか?

どうやったら出来るのか?

この発想が自然と出来る体質かどうかは極めて重要だと思う。

『めんどくせ~』

とか言いつつ、しっかりと進めている人も居れば、本当に何もしないって人も居る。

◆出来る人は”どうやるか”を考える。

◆出来ない人は”なぜできないか”を考える。

とてつもなく大きな差だ。

PCのモニターも小さければ工夫が生まれる

ふと思う事があった。

仕事でエクセルを使う事は多いと思うが、メモ帳と変わらないレベルでしか使えてない人が何と多い事か。

とある人が大きな横長のモニターに交換したいと訴えかけてきて思う事があった。その方はエクセルどころか、それこそ昔コンビニによく並んでた”サルでもわかる”シリーズからパソコンを勉強したほうがいいレベルなわけだが、大きなモニターに交換することで益々スキル上昇を阻害すると思った。

推測するに、その方が大きな(正確には大きくて横長)モニターに交換したい理由は毎日自分がポチポチと入力しているエクセルの表が横長だからだと思う。

確かに表は格段に見やすくなるだろう。しかし、”どうやったら見やすくなるか?”というステップを飛ばしてしまっているんだろうなと感じた。

モニターが小さければ表の表示される範囲にも限界があるから、

  • 項目を絞る
  • 列の幅を調整する
  • 項目の並びも使用頻度で調整する
  • 不必要な項目は非表示しておく

色々あるけど、不自由だから工夫する。

これが大きなモニターにも変わっても感覚は引き継がれるので、大勢と共有するようなファイルなら相手の環境も配慮して作ろうという感覚も生まれる。

たかがエクセルだけども、上達するためにあえて小さなモニターから始めるというのもアリだと思ったわけ。

”どうやるか”って何なのか?

PCモニターを例にとってみたけども、こういった話は色んな所に転がっている。

やり方を知っている事が重要なわけではなく”やり方を探せる”事が重要だと思う。

最終的にやり方を見つけられるかどうかは結果に過ぎない。

重要なのは、そのプロセスに立てたかどうかだと思っている。

”どうやるか”の正体は身近に答えがあるし、大なり小なり誰でも実践している。

例えば『水筒ねぇな。ペットボトルでいいか』なんて事がそうだ。

代用するという行為は”どうやるか”という思考そのものだ。

不自由さが工夫を生む最たる例だ。

”どうやるか”が失われるとどうなる

そもそも、身の回りにあるものすべてが”どうやるか”の上に成り立っている。

”どうやるか”が失われたら文明が無くなるってのは想像に難しくない。

これは『人』でも同じではないだろうか。

”どうやるか”の前には、そもそもの”何かがしたい(欲しい)”といった欲求があるわけだが思ったところで何もしないなら無いのと同じ。欲求を実現する言動力になるのが”どうやるか”という思考がもつ力だ。

便利なれば満たされて”どうやるか”なんて必要なくなるのかもしれないが、それは随分と先の事になりそうだし、そんなのはつまらないね。