極論というのは物事を考える上で悪いことではない。
極論ってのは嫌がられることが多いのではないだろうか。
だがそれは、嫌がられる極論をあげる人間が結局のところ深く物を考えていないから。
極論を振りかざした人間が単に己のわがままを貫いて優位性を確保しようとしてしているとか、極論を語るが何の解決策も対処案も提示しないとか、会話を終わらす意味で使用するケースが多々あることに起因してるように思う。
だが極論というのは正しく使われれば非常に有用な考察手段だと思う。
これは自論だが、物事を考える際には極論を考えてみるという考えを持っている。というよりも私の場合は何か考える際に色々なケースを想定していくと何処かで極論も出てくる。極論が浮かぶタイミングは後か先かは決まっていない。
極論とは極端な例だ。
ひとつの思考を一本の直線だとすると
A--------------------B--------------------C
Bを中間的な考え方としてAとC地点が極論地点だ。
黒か白か、YESかNOか、極論だけで物事を語ってしまえば二択しかないが、すべてのケースが二択で片付くとは限らない。科学とか数学ようにたった一つの正解を探るような物ならばAかCか見たいな事になるのだろうが、議論であるなら誰もが納得の行く着地点がBの中間地点という事もあるだろう。
例えば、「上司に指示にはどこまで従うべきか?」
という表題があったとすると。
極論地点は
A:絶対服従
B:完全無視
といったところだろうか。
だが、これだとわかり辛いので具体的に状況を想像しやすい言葉をつけてみようか。
A:上司が死ねと言えば死ぬ
B:どんな指示も無視して独断で動く
最終的な答えは人それぞれなのだろうが、私としてはAとBがあることで自分としての答えは出しやすくなったように思える。
これを私が考えていくと・・・
- 上司の指示ってのは基本聞くものだよな・・・
- 1の考えによりBが消える。
- じゃぁ上司の指示なら何でも聞くのか?
- 死ねって言われたら死ぬ?
- いやいや上司の指示と言えど限度はあんだろ。
- 5に行き着いたことでAも消える。
- これ以降は自分の中でのB地点を探るに事になる。
- じゃぁ上司の指示が及ぶ妥当な範囲は・・・
- やはり法律は基準になるだろうか
- あぁでも明らかに失敗が予測される指示もまずかも
というような考えが巡り
「法に触れない範囲ならば上司の指示は聞く必要があるだろう、しかし失敗が予測される指示に関しては意見は言う必要があるな。でも指示の実行により自分や会社に大きな不利益がでる可能性があるならば立ち回りは考えないといかんな。」
みたいな考えにいたる。
極論というのは極論なので通常はあり得ない考えかもしれないが可能性の範囲であり得るならば想定範囲として扱うことで物は考えやすくなる。場合によっては出てきた極論ポイントにしてさらに極端な事が起きた場合を想定するのにも使えると思う。
私の場合、こうした極論を意図的に他者にぶつける時がある。
意地悪でするのではなく。指示が曖昧なときとか、話してて着地点が見えないなと感じたとき、いわゆるボヤけてんなと思ったときに極論をテーブルにあげてやることで、話をより具体的な方向に引張ったり、指示がどの程度の強さがあるのか確認するために極論をぶつけると言うわけ。
仕事をしていると様々な指示が上から落ちてくる訳だが、思いつきっぽい指示や、想定される不都合に対する対処への見解がなかったりする場合がある。こうしたケースは大概は上司の性質に由来するものではあるが、極論をぶつけてやるというのは後で何かあっても逃がさないぞ!という私の意志と、上が適当に考えてるなら私も自分に都合がいい方向で対応してやろうという考えがあるときに良く使う手だ。
というわけで、極論ってのは決して悪いもんじゃないよって事を言いたかった。